By Greg Forster, https://greenroomblog.org/tag/babel-series/より。このブログは、著者よりLIGHT PROJECTに翻訳と配信の許可を得ています。
つぶやき(バベル)続けるシリーズ:4
イスラエルのバベル(通称バビロン)への捕囚は、私たちの日々の仕事を見直すために利用できる、大きなバベルの物語における次の段階です。最近、信仰と仕事の流れにおける福音主義の人々の間では、捕囚について語ることが流行しています。実際、あまりにも長い間、流行の最先端を走ってきたため、私はこの言葉が少し流行遅れになりつつあるのではないかと思っています。私たちは、そのような洞察を得て、ポイントを理解し、次に進む時が来たと感じているかもしれません。
神と契約していない文化における、神の民としての私たちの生き方や仕事を考え直すために、捕囚のモチーフが役立つことが見出されていることを、私は大変うれしく思っています。しかし、それ以上に重要なことがあります。捕囚は大きな物語の中の一つの地点に過ぎず、その大きな物語が捕囚に最も深い意味を与えているのです。そして、もし私たちがその大きな物語を見逃すなら、私たちの日々の仕事のための間違った教訓を捕囚から引き出すことになるでしょう。
バベルの物語が聖書全体にわたって弧を描いていることが分かると、イスラエルの捕囚の旅は外への旅、未知の世界への旅ではなかったことが分かります。それは神がすでにアブラムを連れて行かれた旅であり、イスラエルへと至る旅だったのです。ある意味、捕囚の旅は故郷へ帰る旅なのです。私たちが逃げた故郷、つまり罪によって難破した元の都市バベルに帰る旅なのです。
前回、私は「あり得ない神の民の仕事」、すなわち、国々のために、また国々に対して、国々の間で忠実に生きる国民となることについてお話ししました。この仕事は、四角い円を描くとか、指一本で家を持ち上げるとか、人間の能力を超えたことを神が要求されていないという意味で、明らかに不可能なことではありません。しかし、諸国民のために、また諸国民に対して忠実に生きるという仕事は、堕落後、うなじのこわい反抗的な神の民には、御霊の革新的な働きなしにはできないという意味で、明らかにできそうにない仕事でした。
それが捕囚の教訓なのです。それは、国々が悪い(それはもう分かっていること)とか、悪いにもかかわらず私たちは仕えなければならない(これもまた分かっていること)などということではありません。私たちが悪いということ、そして私たちは本来すべきように彼らに仕えていないということこそが、教訓なのです。そして、それは痛みを伴う教訓です。
神はそれを教えるために、痛みを伴う手段を用いられたのです。捕囚の地での生活は、苦悩の連続でした。詩篇137篇を考えてみましょう。この詩は、バビロン人が捕囚中のイスラエル人に、彼らの神を賛美することを強要し、屈辱を与えている様子を描いています。詩篇の作者は、このように叫んでいます:「どうして私たちが異国の地で主の歌を歌えるだろうか。」
人間的なレベルで言えば、偽預言者に惑わされてエルサレムに留まったイスラエルの民に同情しない人はいないでしょう。 捕囚は苦悩の場なのですから。
確かに捕囚は、エレミヤ 29:7にあるように、神の民の使命は諸国民のようになることではなく、諸国民に仕えることだと神の民に教えています。しかし、神はご自分の民に、旧約聖書全体を通して、その教訓を教えておられるのです。アブラムを召された時にも、また律法を通して、さらには預言者たちを通しても、教えておられます。聖書のあらゆる場面で、神はこの教訓を常に教えておられるのですから、捕囚の地においても、この教訓を教えておられることは、決して驚くべきことではありません。
捕囚が教えてくれている独特な教訓とは、つまり、もし捕囚の物語が含まれていないなら、旧約聖書が教えていなかったであろう教訓とは、堕落以来、私たち自身にはこの使命を遂行する霊的な力がないということです。
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Greg Forster氏は、米国トリニティー国際大学のTransformational ChurchセンターにあるOikonomia Networkのディレクターです。Yale大学より博士号。著書多数。
LIGHT PROJECTでは、働くクリスチャンが、「信仰と仕事」を統合して、毎日の仕事を通して、職場でイエスの光(Light)を輝かせることができるように励まし、養うことを目標としています。
このブログを通しても、皆さんの励ましと役に立てれば嬉しいです。
翻訳:後藤スティーブン