By Greg Forster, https://greenroomblog.org/tag/babel-series/より。このブログは、著者よりLIGHT PROJECTに翻訳と配信の許可を得ています。
つぶやき(バベル)続けるシリーズ:5
聖書のバベルの物語は、バベルの物語だけで終わるのではなく、アブラムの招きと捕囚の苦しみの中心でもあることを見て来ました。そして、バベルの物語は、私たちの日々の仕事についても多くを語っていることも見て来ました。
- きちんとこなされた良い仕事は、プライドと恐れを誘発する。
- それは、特に私たちが互いに協力するときに、私たちの仕事の持つ力が非常に大きなものになるからである。
- 神の民は、神に対して反抗的で汚れた世界を、仕事を通して祝福するように召されている。
- ところが、私たちはそれをしない。なぜなら、私たちもまた、反抗的で汚れた存在だからである。
これは悪い知らせの物語ですが、新約聖書における良い知らせの物語を指し示しているものでもあります。バベルの物語は、使徒の働きの中で、衝撃的に反転した形で現れます。バベルは単に反転するだけでなく、私たちが予想もしなかったような形で反転します。また、それは私たちの日々の仕事にとって非常に大きな意味を持つのです。
もちろん、キリストの出来事はバベルの物語の中心的な出来事であり、聖書を貫くすべての物語の中心的な出来事でもあります。
ところが、このことは福音の物語がイスラエルを舞台とし、エルサレムにおいてクライマックスを迎えるため、やや隠されてしまっています。しかしながら、バベルの物語は、キリストの出来事の中で次のように二つのかたちで現れています。
最近の聖書学は、エルサレム帰還における旧約聖書全体を貫く重要な意味合いを強調するようになっています。その意味合いとは、捕囚が完全に終わったわけではない、というものです。神の民はエルサレムに戻りはしましたが、同時にまだ捕囚地にいるようなものだということです。彼らはイスラエルにおいても、自分たちを統治しているわけではありません。同様に重要なことは、彼らは土地を取り戻していないということです(そのため、新約聖書では金持ちの地主の悪が強調されているのです。彼らは征服によって神の民の土地をさし押さえている外国人です)。
キリストが来られた場所はイスラエルですが、バビロン(=バベル)でもあるのです。
バベルとの関係が本当にはっきりするのは、ペンテコステの時です。ペンテコステの記述は、創世記11章にあるバベルの記述を逆転させたものです。しかし、私たちが期待するような形ではありません。
神は人類を一つの国家、一つの言語を話すように造られました。バベルでは、罪の影響への救済措置として、彼らの言語を混乱させられました。罪のために悪用されていた人間の仕事の大きな力は、共同作業にありました。だから、言語を混乱させた結果、複数の国ができました。さらに、その混乱により、人間の共同作業を妨げ、その結果、人間の仕事の力を厳しく制限されたのです。
では、もし神が罪の問題を取り除き、それによってバベルの呪いを覆されるのだとしたら、神は結局、何をなされるでしょうか。言語の多様性をなくされるのではないでしょうか。
昇天されたキリストから聖霊が注がれ、新しい種類の共同体として新約の教会が設立されたということは、神秘的に皆が同じ言葉を話すことを意味し、その言葉とはおそらくヘブル語ですよね。
違います。神のやり方とは、罪のために導入されたものを取り除くことではなく、贖うことです。神の民は人間の王を要求しました。その時、神はサムエルに「彼らはわたしを彼らの王とすることを拒んでいる」と言われました。ところが、キリストが来られた時には、ダビデ(=人間)の王権を排除するのではなく、それを受け継ぎ、永遠にその座を占めるようになったのです。
キリストは、よみがえられた時、五つの傷をまだその身に残したままでした。
協力することを妨げるために導入された国家間の違いは、聖霊によって聖別された者たちの間では、今や協力するための橋となるのです。仲たがいを乗り越え、異なる者同士が協力することで、私たちは神を讃えることができるのです。
文化の違いは、私たちが異なる方法で神を見ることができるレンズでさえあります。クリスチャンは常に、神を理解し、神に従うための原材料として、精神的、物質的な文化の構造を使わなければなりませんでした。文化が多ければ多いほど、材料も多くなります。ギリシャとローマの教会はアリストテレスの哲学的概念を用いて三位一体について説明しました。儒教文化は私たちにどれほど新しい洞察を与えてくれるでしょうか。ニカイア信条は真実ですが、儒教的な言葉で表現された他の信条も同様に真実であり、私たちが考えるべき神の新しい面を明らかにしてくれるかもしれません。
神学的な考え方がそうであるなら、クリスチャンの仕事はなおさらそうです。すべての仕事は文化の中で行われ、仕事を理解し、それを行うために、その文化の道具を使うのです。アブラムが、神の民は仕事をもって国々を祝福するよう召されていることを示しているとすれば、ペンテコステは、私たちがあらゆる文化の中で、また文化を超えて仕事をすることによって、それを行って行くべきことを示しています。
聖書の書簡が証言しているように、多文化に渡る教会が成長することは深刻な痛みを伴いました。ユダヤ人でなくても神に従えるという新しい現実に、誰もが納得できていたわけではありませんでした。キリストは隔ての壁を打ち壊してくださいましたが、別の意味あいでは、私たちは皆、自分自身の人生において(キリストの力によって)隔ての壁を打ち壊さなければなりません。そして、それは簡単なことではないのです。
教会に新たに注がれた聖霊について、新約聖書が最も強調するのは、私たちをより完全に神に従わせ、より大きく聖化するという働きです。その注ぎに伴う異言の奇跡、すなわちバベルの反転は、私たちが神に従えるようにされる時、文化の違いを超えて協力できるようになることを示しているのです。
しかし、これは実際に御霊の力を受けた者にしか当てはまりません。キリストの降誕から再臨までの間、私たちは共同作業のために再生されていない人々の間で生活し、働きます。私たちの人生における隔ての壁を壊すのは大変なことです。壁を壊されたくない世に生きていれば、なおさら大変なわけです。
次回は、このシリーズの最終回として、私たちの現在の葛藤が指し示すバベルの物語の結末について見ていきます。
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Greg Forster氏は、米国トリニティー国際大学のTransformational ChurchセンターにあるOikonomia Networkのディレクターです。Yale大学より博士号。著書多数。
LIGHT PROJECTでは、働くクリスチャンが、「信仰と仕事」を統合して、毎日の仕事を通して、職場でイエスの光(Light)を輝かせることができるように励まし、養うことを目標としています。
このブログを通しても、皆さんの励ましと役に立てれば嬉しいです。
翻訳:後藤スティーブン