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国々のあり得ない未来

By Greg Forster, https://greenroomblog.org/tag/babel-series/より。このブログは、著者よりLIGHT PROJECTに翻訳と配信の許可を得ています。

つぶやき(バベル)続けるシリーズ:6


バベルの物語は、こう問いかけています:「私たちの仕事は、世界をどこに導いているのだろうか。」

信仰と仕事のムーブメントにおいて、私たちは、スティーブ・ガーバーが「ウィジェットの運命 」と呼んだものについて、いつも議論していました。私たちの仕事は、キリストの再臨に備え、物質世界を可能な限り整えているのでしょうか。それとも、神の民としての私たち自身、つまり私たちの霊的成長を整えているに過ぎないのでしょうか。物質世界は浄化され、消滅して再創造されるのかという問題は、終末論の大きな構想の中では、比較的重要度の低い問題であると私は考えます。そのために、以前ほど、この議論が聞こえて来なくなったのではないかと受け止めています。

しかし、私たちの仕事が、物質世界を整えることだと言うのか、それとも、神の民としての私たちを整えること「だけ」だと言うのか、この2つだというのは誤った選択だとにお気づきでしょうか。なぜなら、私たちの仕事によって形作られるものは、物質世界と私たち自身の他にもう一つあるからです。そして、それは、物質世界の運命とは異なり、聖書に記されているキリストの再臨の説明の中で、中心的な重要性を与えられているのです。

私たちの日々の仕事は、私たちそれぞれの国を形づくっているのです。私たちは「国の栄光」を築き、その栄光を国々の王たちが新しいエルサレムに運ぶのです。新しいエルサレムのいのちの木の葉は、国々の癒しのためにあるからです。黙示録21-22章を読むと、国々のことが延々と書かれていることに気づくでしょう。それは、まるで神が国々の運命を重要視しているかのようです!

私たちは、バベルの物語が、創世記に記されていたように、神が国々を創造しただけで終わらないことを見てきました。バベルの物語は、アブラムの召命と捕囚の苦悩の中心であり、新約聖書の教会の基礎となるペンテコステの意味を解く鍵となります。

そして、バベルの物語は、私たちの日々の仕事についても、多くのことを語っていることを見てきました。

  • 良い仕事をうまくすることは、プライドと恐れを抱かせる誘惑となる。なぜなら、私たちの仕事には、特に私たちが協力する時には、大きな力があるから。
  • 神の民は、神の反抗的で罪深い世界を、仕事を通して祝福するために召されている。しかし、私たちも反抗的で罪深い存在であるため、自然にそうすることはできない。
  • キリストは、ご自身の民を贖うためだけでなく、私たちが本来すべきように、私たちの仕事をもって世界に仕えることができるように、聖霊によって力づけるために来られた。
  • キリスト不在の人類の協力を妨げる文化の違いは、キリストにある人々にとっては、協力の架け橋となり、仕事によって互いに神を指し示すための異なるレンズとさえなる。

前回見たように、キリストが民の反逆から始まった人間の王権を継承し、さらには十字架によってつけられた5つの傷を負ったまま死からよみがえられたように、バベルで罪の救済策として導入された国家のアイデンティティーや共同体は、神の聖なる愛を表す栄光の形へと贖われている最中なのです。

このような見方を保つためには、終末論的な根拠が必要です。天地創造には民族が存在しないので、原論的な根拠は確かに示せません。イザヤ60章はそれを示唆し、ペンテコステはそれをさらに強く示唆していますが、黙示録はそれをしっかりと確証しています。

最近私は、神学的見解の違いによって、道徳を形成する共同体として、国家がどれほど影響力を持ち得るのかについて議論しました。旧約聖書の物語が国家の果たし得るこの役割を肯定していることを誇張している人たちに反論して、私は罪の救済としての国家の起源を強調しました。「この世界が国々に分かれているのは、特徴ではなく、バグに対する修正なのです。つまり、人間の悪の出血に対する神の止血措置なのです。」と。

私は作家として、この言葉を生み出したことを特に誇りに思っています。しかし、私はこのセリフを書きながら、この物語の裏側が抜け落ちていることに気づいていました。国々は、そのように始まるかも知れませんが、そのように終わるとは限りません。その違いは、神の民の聖霊の力による日々の働きにあります

もちろん、この約束の成就は、キリストが再臨するときにのみ訪れます。黙示録のバビロン(=バベル)の描写を見れば、そのことがよくわかります。それは、あまり美しい絵ではありません。終わりの前も、直前まで、最後の最後まで、国々は反抗的なままなのです。

黙示録のバビロンの恐ろしいイメージは、現在の国々を正式にキリスト教化しようとする努力には何の希望もないことを思い起こさせるのです。中世のキリスト教モデルが妥協に妥協を重ね、最終的に崩壊したのはこのためです。私たちは、現在の限界の中で、自分たちにはできないことを心に留めておかなければなりません。

しかし、キリスト教が台頭してからの世界史を見ると、神の民が国々の間に存在することにより、その国々の性質が変化し、今も変化し続けていることは明らかです。それは奴隷制度の廃止や世界的な人権擁護の理念の台頭、そしてその理念が可能にした世界的な相互連携に最もはっきりと表れています。しかし、このことは、過去の形態の宗教の崩壊や、かつてほとんどすべての文化の形而上学を支配していた循環的な時間観の消滅などと同様に、多くの見える形で現れています。

そして、「反乱者としてのバビロン」が倒された後、「国家としてのバベル」が復活します。悪のシステムとしての「世界」は倒され、新しい世界、つまり神が愛した「世界」への道を開きます。いのちの木の葉は、国々の癒しのためにあるのです。

黙示録 21:3には、御座から大きな声がして、「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる」とあります。

翻訳者はしばしば、この「民」を単数形で訳しますが、それは誤りです。原語のギリシャ語では複数形になっています。彼らは、まさに複数形で神の民となるのです。

そして、神は彼ら全員の神となられるのです。

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Greg Forster氏は、米国トリニティー国際大学のTransformational ChurchセンターにあるOikonomia Networkのディレクターです。Yale大学より博士号。著書多数。

LIGHT PROJECTでは、働くクリスチャンが、「信仰と仕事」を統合して、毎日の仕事を通して、職場でイエスの光(Light)を輝かせることができるように励まし、養うことを目標としています。

このブログを通しても、皆さんの励ましと役に立てれば嬉しいです。

翻訳:後藤スティーブン

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