By greenroom, David Williamson
このブログは、https://greenroomblog.org/ と著者よりLIGHT PROJECTに翻訳と配信の許可を得ています。創世記シリーズ7回の内容です。
私たちは今、世界規模の致命的なウイルス、つまりパンデミックの真っ只中にいます。創世記3章を読んでいると、創世記1章、2章で紹介した高い仕事観に、創世記3章では致命的なウイルスが導入されていることに気がつきます。残念ながら、人々が仕事で経験する「現実」の多くは、致命的なウイルスのようなものです。
人はなぜ働くのか。それは必要悪なのでしょうか。なぜ、仕事は充実したものではなく、耐えなければならない、生き残らなければならない重荷なのでしょうか?なぜ私たちはTGIF(Thank God It’s Friday、金曜日であることを神に感謝《明日は休みだから》)と言い、TGIM(Thank God It’s Monday、月曜日であることを神に感謝)と言わないのでしょうか。私たちの基本的な生活を支える以外に、私たちの仕事にはまだ目的があるのでしょうか。創世記1章と2章に示された神の目的の文脈の中で、仕事で経験する負担や問題をどのように理解すればよいのでしょうか。仕事の苦しい部分はどこから来るのでしょうか。
仕事という輝かしい贈り物は、仕事を神の権威から引き離したい、人間の限界を越えたいという誘惑によって脅かされています。男と女は、共同作業者でありながら、常に神に従属しています。人間は、神の権威と特権を共有してはいるものの、常に究極的な権威である神に対して責任を負っています。それゆえ、神との誠実な信頼関係が、人間にとっての最も大切な関係であるべきです。ところが、私たちは、(仕事という賜物の)受け手であるにもかかわらず、その賜物のみならず、与え主まで管理したがるのです。
人間は、客人的立場にあったにもかかわらず、神の「かたち」や「似姿」を脱ぎ捨て、単なるパートナーではなく、同等の存在として自身を確立したいと考えました。人間の働き人には、上下関係を排除したり、自分自身を任命する権威を持ったり、創造主の意図や目的、心や地位を二の次にして、関係を修正したり、否定したりすることは求められていませんでした。彼らは、神に頼り、神を中心とするのではなく、むしろ自分たちだけで十分であり、自分たちが中心になることを望んだのです。
これは、仕事には権威構造の確立が伴うことを示唆しています。1世紀のクリスチャンが、混沌とした生活から秩序ある生活を神が求めておられることを認識し、確立された上下関係を尊重するよう招かれていたコロサイ3:22、4:1やエペソ6:5-9を考えてみてください。被造物は、創造主や共同体の権威を自分の手で奪うべきではありません。そのようなことが起これば、災いがそれに続き、荒々しい目覚めが起きます。理想は、「今の現実」に置き換えられるのです。
アダムが神の権威への信頼関係を断ち切った瞬間から、仕事は完全に汚されてしまいました。あたかも巨大なウイルスのパンデミックがプログラム全体を破壊しようとしているかのようです。致命的な欠陥が仕事の基本的な事業に浸透し、「顔に汗する」ような「労働」や「葛藤」になってしまうのです(創世記3:18-19)。
注意してください。仕事そのものが本質的に悪になるのではなく、仕事のやり方が、不安、しばしば苦痛を伴う労苦、無関心、葛藤と結びついて織り込まれてしまうのです。良い仕事が困難な仕事になり、しばしば意味も目的もないように見え、神の栄光ある目的を果たすというよりは、限界まで生き延びるための手段になってしまうのです。こうなると、仕事は喜びも価値も意味も失ってしまったかのように思えます。仕事における本質的な本来の良さは決して取り除かれたり破壊されたりしていないのに、私たちは無駄な労働をしがちになってしまうのです。このように仕事を体験している人があまりにも多いわけです。労働者はしばしば、休暇、ダウンタイム、安堵、休息を得るために我慢しなければならない「必要悪」として仕事を経験するのです。
神が私たちを形成するために用いられた良い土地(アダマ)は、今や邪魔する要素を取り込み、耕し育てることを難しくしています。土地の支配と生産において神と協力する仕事は、今や “額の汗 “になっているのです。自然界は必ずしも協力的ではありません。土からは茨やアザミが生えるのです。仕事も出産も呪われてはいませんが(第4章で見ることになります)、どちらも深く影響を受けているのです。
3章では、次のような行動や態度が見られます。制限が問題視されていること(創世記3:1-2、5-6)、人間の境界を超えようとする試みがあること(3:5-6)、信頼関係が崩されていること(3:6と8)、正当な権威が無視されていること(3:4-5)、人間関係を否定したり破ったりすること、神や他人、さらには自分からも隠れようとすること(3.8-10)、言い訳に言い訳を重ねながら責任のなすり合いをすること、自分自身の行動に対する責任を回避することなどです。プライドは、神との信頼に基づく従属関係、そして人間のパートナーである共働者との並行関係を損ないました。蛇は、私たちが支配するはずの被造物であるにもかかわらず、今や、私たちに対して立ち上がりました。すべての関係が損なわれてしまったのです。
しかし、神の贖いの愛と備えはまだ明らかです。地は依然として良いものを生み出し、人間はその生産物から、さらには土地を耕す過程からさえも、利益を受け続けています。私たちは今もなお、土地のため、また私たちの労働のために、神の良き目的を理解し、それに参加する共働者として召されているのです。神の仕事と神の働き方法は今でも続いています。この堕落した世界の中で、私たちは今でも、神の本来の計画を見て、受け取り、それに参加するようにと召されているのです。
創世記3章21節において、神は私たちの堕落のために備えをしてくださいます。神は自ら進んで私たちを助けに来てくださったのです。神はアダムとエバのために衣服製作者の仕事をし、なおかつ、依然として私たちを共働者として呼んでくださったのです。それは決して失われることはありません。神が意図しておられる生活、すなわち自然界の管理、監督、開発において神と協働することにつまずき続ける時、私たちは、生存と繁栄のために、これまで以上に神に依存しなければなりません。神は、私たちが被造物と創造主の間の境界を超えることはできないことを思い起こさせるために、ケルビムと剣を置かれたのです。
仕事は必要悪ではありませんが、しばしば神の意図よりかなり劣るものとして経験され、困難なものとなります。創世記3章は今、現実のものとなっていますが、それでも神は神です。神の本来の目的である仕事の喜びは、歪められています。しかし、それは、私たちが耐えるものではなく、神の栄光と私たちの喜びのために、私たちが受け取り、楽しむものにもなり得るのです。必要悪ではなく、必要善なのです。ですから、金曜日と同様に、「月曜日に感謝」しましょう。
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LIGHT PROJECTでは、働くクリスチャンが、「信仰と仕事」を統合し、毎日の仕事を通して、職場でイエスの光(Light)を輝かせる(福音を適用する)ことができるように励まし、養うことを目標としています。
このブログを通しても、皆さんの励ましと役に立てれば嬉しいです。
翻訳:後藤スティーブン・島谷知明