仕事、世界の始まりから – 創世記4

By greenroom,  David Williamson 

このブログは、https://greenroomblog.org/ と著者よりLIGHT PROJECTに翻訳と配信の許可を得ています。創世記シリーズ8回の2回目の内容です。

改訂された脚本、つまり創世記3章以降の人生の新しいドラマが演じられ始めます。創世記の第4章は、慰めと希望に満ちた言葉で始まります。罪と神の裁きにもかかわらず、神の恵みによってエバは子どもを産むのです。実際、すべての仕事、すべての労働、すべての生産は、「主の助けを借りて 」という理解と献身をもって行われるべきです。回復と再生の賜物として、また神の創造の御旨の一部として、神が恵み深く関わってくださっているという事実を受け入れながら神と共に働くことが、すべての仕事を行う際の態度であるべきなのです。これは、私たちの運命を成就するための闘いです。すべてが失われたわけではなく、カインは生まれ、神はまだ働いておられるのです。

第二子のアベルは「羊飼い」、カインは「地を耕す人」、つまり農夫です。両方とも立派な仕事であり、それぞれが神の御旨の一部を満たしています。カインとアベルは、それぞれの仕事において神と共に働くのです。その中で、彼らとその家族は、仕事のための賜物、つまり互いの糧や幸福を得るために必要な手や心のわざを用います。そこにはそれぞれの専門性があり、またそれぞれが他の人の幸福のために必要なのです。

カインとアベルは、それぞれの仕事から得た産物、彼らの労働の成果である「最初の果実」を、礼拝の行為として捧げます。これは、その仕事の生産性に最終的な責任を持っておられる根源なる存在への感謝を表すためです。礼拝としての仕事は、新たなかたちへと引き継がれています。先に述べたように、アボダという語は、仕事という意味にも、礼拝という意味にも訳され得ます。新約聖書においては、これを礼拝行為とするよう、直接的に招かれています:あなたの日常生活、寝ること、食べること、仕事に出かけること、出歩くことなどを、供え物として神の御前に置きなさい(ローマ12:1)。「ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。…何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」(コロサイ3:17、23)

ここで厄介な問題が起きました。神はアベルの肉の捧げ物は受け入れられますが、カインの農作物の捧げ物は受け入れられません。神はアベルの職業や生産物をカインのものよりも評価しておられるのでしょうか。それとも、生産物以外の神との関わり方の違いが関係しているのでしょうか。創世記では、この点については語られていませんが、ヘブル人への手紙11章4節には、このように記されています:「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。」 また、聖書全体を通して、この二つのタイプの仕事と生産物は、神とのパートナーシップの中で生産されるとき、同じように価値があり、同じように必要であることが示唆されています。

神はカインをただ一掃するのではなく、カインに悔い改めを促し、悔い改めれば受け入れられると伝えています(7〜8節)。カインの捧げ物は拒絶されたとしても、神はカイン自身は受け入れられるのです。このことは、他人の仕事(あるいは自分の仕事)に与えられる報いを気にするのではなく、神との関係において忠実であり続けることが大切であるということを示してくれています。神からの報い、評価は神の範疇にある事柄です。妬みやそこからくる敵対的な行動には注意し、気をつけなければなりません。堕落以前は、仕事は神と完全に一体となって為されていました。そこには喜びと満足がありました。堕落後、人間の仕事は罪という致命的なウイルスに感染し、しばしば苦痛を伴う暴力的な妬みという形で表れます。それは、神のために為される仕事から目や手を離し、達成や報いを比較して不安になることから来ているのです。

私は、不公平や不正を見過ごせと言っているのではありません。私たちは、公平さと正義のために働くべきです。私たちは、神が私たちをきちんと取り扱ってくださり、最終的には満足することになるということを信頼しつつ、自分が召され、参画する特権を与えられているのは、神の仕事であることを常に憶えるべきです。その上で、他の人に与えられた評価に腹を立てるのではなく、同僚を肯定し、個々の貢献や相互の貢献を大切にするよう、招かれているのです。恵みは約束されており、与えられるのです。

カインは妬みから殺人を犯してしまいました。その結果、彼は土地を追われ、放浪者のような生活を送ることになります。しかし、カインが極端に暴力的で、神の恵みに満ちた御旨を無視したにもかかわらず、神はカインを見捨てられませんでした。すべてが失われたわけではないのです!神はカインとその家族を引き続き守り、養うことを約束しておられます(創世記4:15-16)。私たちも働く者として、神の御旨に反して、同僚や競争相手に有害なこと、傷つくこと、罪深いことをしてしまうことがあります。私たちはその現実と結果を直視しなければなりませんが、神がまだ共に居てくださることを疑ってはなりません。すべてが失われたわけではないのです。

創世記4章9節には、古典的な質問が出てきます:「私は弟の番人なのでしょうか。」 ここで示唆されているのは、働く者である私たちがお互いを配慮するという責任です。働く者として私たちは、兄弟姉妹として生き、励まし合い、挑発し合い、告発し合い、助け合い、互いに責任を負い合うように召されています。神と協力し、神に対して責任を持ち、同僚と協力し合い、互いに責任を追い合いながら、神と共に働くのです。このことを無視することは流血につながり、裁きをもたらすことになります。

カイン(17節)は、神に祝福されて子どもを授かり、町を築き始めます。ここでは、町について初めて言及されています。カインは、放浪の旅から町作りへと移り、そしてその町の中で家族や他の人たちのために生活をするようになりました。私たちの仕事もまた、孤独な(エデンのような牧歌的なものと思われがちな)田舎から、町という意図的な相互依存の環境へと移行することなのかもしれません。孤立した放浪から、そして弟の生命を奪って共同体の関係を損なうことから戻って来て、すべての人が繁栄できるような相互協力でき、安住できる共同体のライフスタイルを発展させること、それがカインに求められている贖いの働きなのかもしれません。事実、福音においては、創世記のエデンから黙示録の新しいエルサレムへと動いています。エデンの後であり、新しいエルサレムの前に生きる私たちに求められている神の国の仕事とは、まさにこれなのかもしれません:「わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。」(エレミヤ 29:7)

カインの新しい仕事から、私たちの仕事とは、イスラエルの民が捕囚先から戻って来るのを見越して、町を建設すること、また町を再建することなのかもしれません。昨年は、COVID-19や暴動など町に破壊をもたらしたいくつかの要因が注目され、多くの人の間で町から離れた生活への新たな理想主義が生まれています。しかしそれでも、町が安全で繁栄するための構造を再構築する必要があります。天の町である新しいエルサレムは、神の御旨を表すイメージであり、象徴です。創造における神のみわざと一致する働きをこのエデン後の状況に適用した働きの完成図なのです。

LIGHT PROJECTでは、働くクリスチャンが、「信仰と仕事」を統合し、毎日の仕事を通して、職場でイエスの光(Light)を輝かせる(福音を適用する)ことができるように励まし、養うことを目標としています。

このブログを通しても、皆さんの励ましと役に立てれば嬉しいです。

翻訳:後藤スティーブン

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