このブルグは、著者のヒュー・ウェルチェル氏から許可を得て翻訳・掲載しています。
一般恩寵(共通恩寵)と特別恩寵を理解する
預言者エレミヤは、バビロン捕囚中のユダヤ人に対し、「わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。」(エレミヤ29:7)と書き送りました。パウロはガラテヤの人々に「...ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。」(ガラテヤ6:10)と語っています。
同時に、逆のことを言っているように見える聖句もあります。イスラエルの民がエジプトから脱出したとき、「エジプトからはぎ取り」ました(出エジプト記12:35-36)。パウロはコリントの人々に「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。」(第二コリント6:14)と戒めています。ユダヤ人がバビロンから帰還したとき、サマリヤ人は神の民が神殿を再建するのを手伝うことを許されませんでした(エズラ4:1-3)。ダニエル・ストレンジ師が書いているように、「世にありながら世に属さない」ことは、ぱっと見よりも複雑なのです。
使徒ヤコブは、「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。」(ヤコブ1:17)と書いています。この箇所に関して、ティム・ケラー師は著書『The Reason for God』(神の理由)の中でこう書いています。
これが意味するのは、誰がやろうと、善、知恵、正義、美のすべての行為は、神によって力づけられたものであるということなのです。神は知恵、才能、美しさ、技術などの良い賜物を「恵み深く」、つまり、完全に無償で与えてくださいます。宗教的信念、人種、性別、その他の属性に関係なく、神は、世界を豊かにし、輝かせ、維持するために、全人類にそれらを配られるのです。
聖書は、神の恵みについて、2つの全く異なる方法で語っています。一つは、神学者が特別恩寵と呼ぶもので、救いをもたらす神の好意です。
特別恩寵とは、聖霊が個々の罪人を呼び出し、新生させ、義とし、聖別する働きのことです。特別恩寵は、聖霊の働きによって、実際にイエス・キリストにある救いの信仰を持つようになった人だけに与えられます。
しかし、ケラー師が示唆しているように、この堕落した世界に対する神の恵みの表れは、特別恩寵だけではありません。では、イエス・キリストを信じる救いの信仰を持たない人々は、別の種類の神の恵みを受けているのでしょうか。
全的堕落
使徒パウロは、人類の普遍的な状態を暗い言葉で表現しています。ローマ人への手紙の中で、彼はこう書いています。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。(ローマ3:10-12)」神学者たちは、キリストから離れて堕落したこの状態を「全的堕落」と呼んでいます。
しかし、全的堕落は完全な堕落ではありません。私たちは私たちが成り得るほど邪悪ではなく、未信者が神の賜物を楽しみ、世のためになることを行っているのを見ています。ジョン・マーレー師が述べたように、全的堕落という考え方は、私たちに難しい質問と葛藤するよう迫ります。
神の怒りと呪いの下にあり、地獄の相続人である人間が、なぜ神の御手から多くの良い賜物を享受するなんてことが起こり得るのか。神の御霊によって救われるよう新たにされたわけでもない人間が、それにもかかわらず、自分自身や他人を守り、一時的な幸福や文化の進歩を与え、社会的・経済的改善を促進するような多くの資質、賜物、業績を示すのはなぜだろうか。...この質問を最も包括的に言えば、この罪に呪われた世界が、聖なる、常に祝福された創造主の御手によって、これほど多くの好意と優しさを享受しているのはどうしてなのか、ということになる。
一般恩寵(共通恩寵)
偉大な宗教改革者ジョン・カルヴァンは、これらの質問に対する答えは、聖書が神の特別恩寵(救いの恵み)と共通恩寵(救われない恵み)を区別していることにあると最初に示唆した一人です。カルヴァンは、ノンクリスチャンの善の能力を、神からの賜物と表現しました。彼は、信じないの心は、「その完全性から堕落し、変質しているとはいえ、神の優れた賜物を身にまとい、装飾されている」と言っています。
共通恩寵は、アブラハム・カイパーによって、「消極的には、サタン、死、罪の働きを抑制し、積極的には、深く根本的に罪深い存在であり続けるけれども、罪が完全にその目的を遂げることのできない人類のためのみならず、この世界のために、中間状態を創造する行為」であると定義されました。
共通恩寵は、ノンクリスチャンの消防士に、9月11日にツインタワーの階段を上って金融関係者を救う力を与えます。ノンクリスチャンの兵士が手榴弾の上に身を投じ、仲間を救うために自分の命を犠牲にするのも、この共通恩寵が動機となっています。ジョン・マレー師は、「新生していない人間に帰する善は、結局のところ相対的な善でしかない。動機、原則、目的において、神の律法の要求と神の聖性の要求を満たすという意味での善ではない。」ということを思い起こさせてくれています。
たとえ動機が罪深いものであっても、不信者は創造主の素晴らしさを反映し、不完全ではあっても重要な形で神に栄光をもたらすのです。
共通恩寵に感謝することによって、すべての神の被造物との積極的な相互作用を通して、人間関係、伝道、仕事、文化活動、芸術や娯楽を効果的に追求することができます。共通恩寵は、私たちがイエス・キリストに従わない人々と働きながら、「世のもの」にならないための神学的、実践的な答えを与えてくれるのです。
クリスチャン:救いの恵みから行動する
クリスチャンとして、私たちは教会、家庭、地域社会、職業的召命において働くとき、特別恩寵の中で働くことを忘れてはなりません。私たちは共通恩寵によって利益を得ていますが、決して共通恩寵から行動しているわけではありません。使徒パウロが書いているように、「神の御霊に導かれる人はみな、神の子ども(ローマ8:14)」なのです。
クリスチャンが職場でノンクリスチャンに囲まれている場合、共通恩寵の教義から大きな希望を持つことができます。スコット・カウフマン師が書いているように、「一般恩寵(共通恩寵)は、文化を温かく受け入れるべき時と、文化に対して激しく預言的に反対すべき時があることに気付く助けとなります。そして、その両方を行うための唯一永続的な聖書的方法とは、共通恩寵のレンズを通して文化を見ることです。この教理は、私たちが福音を受け入れながら、文化に関与するための強力な聖書的実践を得るのに役立ちます。」
どこで働こうとも、私たちの職業的召命を通して、神は、ご自身の栄光のために、同僚、会社、都市、国家、そして世界に影響を与えるよう私たちを用いることができるということを確信できるのです。
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このブログの英語原典:https://tifwe.org/understanding-common-vs-special-grace/
著者: ヒュー・ウェルチェル(Hugh Whelchel)氏は、Institute for Faith, Work & Economics(IFWE)の創設者で、元エグゼクティブ・ディレクター。宗教学の修士号を持ち、30年以上に及ぶ様々なビジネス経験をIFWEのリーダーシップに生かしている。
LIGHT PROJECTでは、働くクリスチャンが、「信仰と仕事」を統合して、毎日の仕事を通して、職場でイエスの光(Light)を輝かせることができるように励まし、養うことを目標としています。
このブログを通しても、皆さんの励ましと役に立てれば嬉しいです。